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Gekkan Dennou Club 147
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Gekkan Dennou Club - 2000.8 Vol. 147 (Japan).7z
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Gekkan Dennou Club - 2000.8 Vol. 147 (Japan) (Track 1).bin
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1995-03-20
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11KB
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339 lines
投稿について考えたこと
第一部(表バージョン)
今、コンピュータ雑誌全般で「投稿」が減っているらしい。『Windows
マシン』や、『Mac』の専門誌では、投稿者は絶滅寸前ということらしい。
高機能かつ多機能で、多種多様のアプリケーションが豊富に揃っているそれら
のマシンでは、自分でプログラムを組まなくてもマクロや、スクリプトで、ほと
んどのことはできてしまう。その結果として、以前ならば投稿作品として雑誌に
掲載されたような小物のツールなどは、必要なくなってしまう。アプリケーショ
ンが豊富に揃っているマシンの専門誌は、ソフトの紹介だけで雑誌としての体裁
を保つことができるので、その紹介の中に、「わざわざプログラムを組まなくて
も、こんなに便利なマクロが使えますよ」という説明を入れることで、暗黙のう
ちにプログラミングを否定してしまう。
仕事でコンピュータを使っている場合は、個人でプログラムを組む必要のない
「おきらく」な環境はありがたいことだろう。
しかし、快適な環境が、プログラミングの楽しさを知らない人を増やしてしま
い、プログラミングの楽しさを知っている人達からは、その楽しさを忘れさせて
しまったのではないだろうか。コンピュータユーザーを、与えられたプログラム
を実行させるだけの人にしてしまおうとする意志がどこかにあるのだろうか。
そもそも、パーソナルコンピュータとは、「コンピュータを人民の手に開放す
る」という思想が、根底に流れているのではなかったのか。
コンピュータは単なる道具にしか過ぎず、どのように使おうが個人の自由であ
る。しかし、プログラムが与えられるだけのものになり、その与えられたプログ
ラムだけの世界で満足してしまうことは、与える側に支配されることと同じなの
ではないだろうか。あるソフトを使っていて、自分の望む機能が備わっていない
時、「仕様だからしょうがない」などと呟くだけで納得してしまったのならば、
それはコンピュータを使っているのではなく、コンピュータに使われていること
になるのではないだろうか。一般のコンピュータユーザーが、プログラミングを
放棄してしまうことは、とても危険な感じがしてならないのだ。
市販のソフトと比べて遜色のないプログラムを、個人で作ることは難しいだろ
うし、既に存在するプログラムと同じ動作をするものを、わざわざ作り直す必要
はないだろう。しかし、それがプログラミングを放棄してしまうことの理由には
ならない。
第一、プログラミングは楽しいことなのだから。
プログラミングの楽しさについては、多くの人が、多様な楽しみについて語っ
ているので、改めて私がここに書く必要はないのだろうが、手抜きと言われない
ように一つだけ書こうと思う。
私が思うプログラミングの楽しさの一つは、「完成までの、すべての工程に自
分が関与できる」ということだ。
最近の物作りは、効率を重視するために、その工程が極限まで細分化されてい
る。つまり、部品を作る人はひたすら同じ部品を作り、ネジを締める人はネジを
締めることだけを繰り返し、色を塗る人は塗装に徹する。これでは、ものを作っ
ているという感動が少ない。もちろん、仕事としてやっている人達は、それらの
工程に責任と誇りを持ってやっているのだろうが、たとえばプラモデルを、その
ように、多人数でバラバラの工程に振り分けて作ったとしても面白くないはずだ。
個人的なプログラミングでは、なにを作ろうかと思案するところから完成までの
すべての工程に、自分が立ち会うことができる。それだけに、完成した時の達成
感というか、喜びは大きいのだ。
プログラミングの楽しさは、ほかにもまだまだ沢山あるのだが、私がこれ以上
書かなくても、自分でプログラムを作れば分かることだろうし、『電脳倶楽部』
や、『Oh!X』の読者の皆さんが教えてくれるはずだ。
プログラミングを十分に楽しんだ結果として、何等かの作品ができあがる。そ
の作品は、決して隠匿してはいけない。形式は個人の自由だが、どのような形に
しろ発表しなければ意味がないのだ。
作品には、その制作者の思想や価値観が込められているはずだ。つまり、ゲー
ムならば、「私の考える面白いゲームとはこういうものだ」や、ツールならば、
「私の考える便利(使いやすさ)とはこういうものだ」や、「私が必要と思う機
能はこういうものだ」という主張が込められている。なにも考えずにプログラム
を作る人はいないだろうから、作品に主張が込められるのは当然のことだ。そし
て、主張は、外へ開かれ、外へ向かわなければ、単なる「独り言」にしか過ぎな
いのだ。
また、そのプログラムを作った時に考え出した数々のアイデアが、発表され、
公開されることによって、利用され、リファインされ、コンピュータ文化の礎と
なるのだ。
ここまで読んで、人類の文化発展に貢献しようと思ったあなたは、自作プログ
ラムの発表の場を探しているだろう。だが、探す必要はない。あなたが今、読ん
でいるのは『電脳倶楽部』であり、そしてこれは、『Oh!X』の付録なのであ
る。
今や、『電脳倶楽部』と『Oh!X』は、投稿者に門戸を開く数少ない、コン
ピュータ雑誌であるらしい。そして、雑誌にプログラムを投稿することには、数
々の利点があるらしい。
まず、投稿されたプログラムは、編集者というフィルターにかけられるので、
採用(掲載)されたかどうかで、自分のプログラミングやアイデアの、客観的な
レベルが分かり、腕試しができる。さらに、投稿されたプログラムには、修正が
加えてあることがあり、自分の知らなかったテクニックや、アルゴリズムを知る
ことができ、プログラミングのレベルアップに役立つ。そして、掲載されたプロ
グラムは、自分とは環境、立場のまったく違った多くの人達に、実行され、試さ
れ、評価されることになるのだ。
迷う必要はない。躊躇している暇はないのだ。今すぐに投稿しようではないか。
第二部(楽屋バージョン)
と、説教モードで書いてはみたが、納得することができただろうか。実は、私
はあまり納得していない部分があるのだ。
今回の原稿依頼は突然の話だった上に、時間的余裕がまったくなかった。依頼
があった時に私は、このコーナー担当の電脳倶楽部編集部F氏に、「いくら埋め
草とは分かっていても、テーマが決まらなければそんな短時間でなにかを書け、
と言われても無理ですよ」と言ったのだ。するとF氏は、しばしの沈黙の後、次
のように語りだした。
「あのですね、最近のコンピュータ雑誌には、投稿記事がほとんどありません、
よね。豊富なアプリケーションが揃っているマシンでは、プログラムを組む必要
もなくなってきていることですし、ね。これは、プログラムの投稿の楽しさを知っ
ている私としては(F氏はあるコンピュータ雑誌の常連投稿者だった)、これは
悲しむべき状況なわけなんですよ、ね。
私の考えるところ、今や、プログラムを作る楽しみが残されているマシンは、
X680x0ぐらいのものだと思うんです、ね。
そこでですね、投稿を喚起するような内容で書けませんか? 『Oh!X』の
付録ということで読む人も増える訳で、『電脳倶楽部』に投稿してくれる人が増
えるかもしれないと。ね。」
これでもか、と言わんばかりに念をおす物言いをするF氏の意図を汲んで、雑
誌に投稿しようというアジテーションを第一部でやったのだ。第一部で文末が
「らしい」となっているところは、すなわち、F氏からの伝聞をそのまま書いた
結果なのだ。しかし、電脳倶楽部編集部の提灯を持ったり、お先棒を担いでいた
りしたのでは、一読者である私が、ここに文章を書いている意味がなくなってし
まう。
ということで、あらためて、第一部の主張を検証してみようと思う。
まず最初の論点である、「コンピュータ雑誌全般において、投稿者が減ってい
る」という部分だが、コンピュータ雑誌の編集者が投稿を拒絶しているようなこ
とがない限り、正しいと言えるだろう。確かに、昔のコンピュータ雑誌に比べる
と、今のものは読者投稿のページが極端に少なくなっている。多くの16進ダン
プリストやBASICのソースで分厚かった雑誌が、投稿の数が減り、ペラペラ
になり、やがて休刊(事実上の廃刊)という事態を目撃した人も多いと思う。
次の、「人々が、プログラムを組まなくなることは危険だ」という部分は、理
由はともかくとして、それほど間違ってはいないと思う。ただ、プログラムを組
む人が、減っているのかどうかには疑問がある。確かに、コンピュータ所有者に
おける、プログラミング人口の割合は減っているのだろうが、コンピュータ所有
者自体が増えているはずだから、絶対数ではプログラミング人口は僅かであって
も増加しているはずだ。また、「おきらく」な環境には、「おきらく」な割には
結構強力な、『Visual Basic』のようなものも存在するので、趣味
のプログラマーは、いなくはならないと思うのだ。
続いて、「プログラミングは楽しいことだ」という主張だが、「楽しい」か、
「つまらない」かは、個人の趣味や、価値観や、感性の問題であり、私自身はプ
ログラミングは楽しいことだと思っているので、ここに異論を称えられても困る。
「制作したプログラムは公表しなければならない」という部分は、私の個人的
願望も含まれているのだが、それほど間違ってはいないだろう。
問題は、F氏の意図でもある「だから雑誌に投稿しよう」という部分だ。本当
にそうなのだろうか? 発表の場としては、通信に乗せるという方法もある。
雑誌に投稿した場合の利点は第一部に書いた通りで、これは,F氏の主張でも
ある。しかしそれらの利点は、通信でも同じように得られるのではないだろうか。
自分のプログラミングレベルの腕試しとしては、アップロードしたプログラム
が黙殺されてしまうかどうかで分かるだろうし、ある程度使いものになるプログ
ラム(アイデア)ならば、適切なアドバイスを与えてくれる人がいるだろう。全
国規模のネットワークならば、様々な人々が自分のプログラムを使用してくれる
ことだろう。
プログラムを作る人の絶対数が僅かでも増えているにも関わらず、雑誌投稿者
が減っているのは、その分のプログラムが通信上で発表されているのではないだ
ろうか。事実、通信上で発表されているフリーソフトを紹介している記事のある
コンピュータ雑誌は、増えているようである。
投稿しても、通信に乗せても、得られる結果は同じだとすれば、第一部の結論
である「だから雑誌に投稿しよう」という部分には、素直に納得できないものが
ある。
得られる結果が同じならば、なぜ投稿者が減ってしまったのだろうか。
私は通信をやっていないこともあり、通信上で活躍している人の考えを聞くこ
とができないので推定することしかできないが、プログラムを作った人が、投稿
することに魅力を感じなくなってしまったのではないかと思うのだ。雑誌に投稿
すること以上の魅力が通信での作品発表にはあるのかもしれない。
そうだとすると、投稿者を増やすためにコンピュータ雑誌は、単に作品発表の
場を提供するだけでは不十分になってきているのではないだろうか。投稿作品が
掲載されることで、通信からは得られない魅力を感じることができるような雑誌
を作ること、それこそが、投稿者を呼び戻すために一番大切なことだと思うのだ。
もしかしたら、『Oh!X』には投稿者が大勢いて、私の書いたことは大きな
お世話かもしれない。しかし、『電脳倶楽部』は、投稿作品が多ければ多いほど、
楽しい紙面(磁性面)になるのだ。さらに、「DSHELL」上で実行できるプ
ログラムならば、「◎」をクリックするだけなのだから、電脳倶楽部の読者は少
なくとも一回は実行してくれるはずだ。自分のプログラムを多くの人に確実に実
行させようと思うならば、これ以上の方法は他にない。
『Oh!X』の読者の皆様方の中で、腕に自信がある人は(ない人も)、どん
どん『電脳倶楽部』に投稿して欲しい。
ふじた・最後は提灯を持った・カヂュヒロ
(EOF)